関西では、1月9日を宵えびす、10日を本えびす、11日を残り福といって各地のえびす様を祀る神社では大賑わいをみせる。
えびすとは、恵比須、戎、蛭子、夷、恵比寿などと書き、七福神の一でもある。
関西には先のように正月十日を「十日戎」と呼んで、大阪商人が仲間を招いて祝宴を催したり、えびす様と縁が深い兵庫県・西宮神社(ニュースなどで境内を走り抜けて福男を選ぶ開門神事をご覧になった方もおられるかも知れません)や、「商売繁盛で笹持ってこい」の大阪・今宮戎神社に初詣する習わしがある。
この日は笹が一年中枯れないことから繁盛をもたらす縁起物として、笹の飾り物が多く売れる。各地に祀られるえびすとも深く関わる。
起源で史料に見えるのは、摂津国西宮神社(蛭子神)と出雲美保神社(事代主命)が本社とする2系統が古く記紀に記載がある。
えびすは招福の神として漁村、農村、商家と幅広く祀られている。えびすの神像、神絵は狩衣に指貫・風折絵帽子をつけ、右手に釣り竿、左わきに鯛を抱えている。
これらのえびす信仰は、夷舁き、夷舞わしなどの人々、神人によって流布された信仰と思われるが、近世以降に七福神の一として、また大黒天と併祀して民間に受容された。
大阪の今宮戎神社などには崇敬者を中心とした諸集団があり、今宮戎神社などの場合、俗に十日戎と称して正月十日に盛大な祭りをし、商家などで参詣に行く形をとっている。農村の夷講は東北・関東地方に多いが、多くは正月と十月二十日であり、一年の生業の豊祝祈願とその感謝の祭りを家単位、または地域単位で行う。夷棚や祠に供物をして祀るが、正月にはえびす様が稼ぎに出るとか、十月には帰って来るという伝えが各地に残っている。
このようにえびす信仰は、農漁村や商家などで生業を守護し、福徳をもたらす神として、日本全国で見いだされる信仰なのである。語源は明白ではないが、異郷から訪れる神という観念が強く認められるので、日本固有の訪人(マレヒト)神の信仰を背景にして、特定の神人たちの活動によって流布していったものと考えられる。
漁村では祠に祀った神だけでなく、鯨や鮫、海豚をえびすと呼ぶことが多く、大漁をもたらす神と畏敬していることから、えびすという語は忌語であって、大漁の前兆としてそれらの固有名詞を直接に呼ぶことを避けたための言葉とも考えられる。祠に祀ったえびすの御神体が漂着神であったり、網にかかってあがったなどの伝承を持つのも全国的にみられる。
このように漁村に発した信仰が、次第に内陸部に伝播し、農業神となり、さらに商家の神ともなったと考えるのが自然である。そこには夷舞わしなどの芸能を持ち歩いた人々の力を認めることができるのである。
この福の神えびすは末法思想の広がった平安時代後期には恵比寿・大黒の信仰が広まり(『伊呂波字類抄』)、応仁・文明の乱の動乱の続く室町時代末期には、恵比寿・大黒・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋尊の「七福神」が形成され、江戸時代の文化・文政期に「七福神めぐり」が流行り、全国的にも多くの七福神めぐりの名所が成立した。
七福神は、鎌倉期に大黒天(仏法の守護神であり五穀豊穣の神)、弁財天(古代インドの神で音楽や知恵を司るとされる)が加わり、室町期になると毘沙門天(仏教の守護神で人倫の道を司る)、布袋尊(弥勒菩薩の化身化とされる)、福禄寿(中国道教の富と幸福、長寿などを象徴する)、寿老人(道教の思想に基づく長寿神)の四神が加わった。七福神の話は別の機会に譲るとして、大黒天、弁財天、毘沙門天の古代インドの神、布袋尊、福禄寿、寿老人の中国の神に、恵比寿が古くからの日本由来のものであるのが興味深い。
えびすは、もともと異郷からやって来て、人々に幸福をもたらしてくれる神と信じられ、はじめ漁民に深く信仰されたのは先に述べたとおりである。えびすの祠に祀られているのは、必ずしもえびすの神像や御札だけではなく、浜に打ち寄せられた浮遊物や海中の石などもある。それらはみな海の恵みであり、福をもたらせてくれるものだと考えられたのである。鯨や鮫をえびすと呼んで尊ぶ風習は全国的である。鯨や鮫、海豚には魚群がついていることが多く、鯨や鮫、海豚が近寄ると大漁をもたらせてくれるからである。また、漁民のあいだでは海難者の死体に出会えば、これをえびす様と呼んで漁を休んで浜に戻って葬ったが、その墓が夷社になって豊漁の神となることが多かったと柳田國男氏は見聞している。
えびすは漁民だけでなく農民や山民にも信仰され、田の神や山の神として崇められた。都市ではまた市神として信仰され、福利を招来する神として商人たちの信仰を集め、またえびすを台所に祀って、台所の神、家の神とするところも全国的にみられることである。台所の神として大黒天とペアで祀られるこことも多い。
こうしてえびすを福の神として全国に広めたのは、摂津西宮神社(えびす社)の神人たちであった。彼らは「えびすかき」(人形舞)といって、傀儡(操り人形)の芸能を携えて各地を漂白し、門付芸をしながら、
「西の浜の恵比須三郎左衛門尉、生まれ月日はいつぞと問えば、福徳元年正月三日、寅の一刻または卯の刻になるやならずやに、やっすやっすと御誕生なあされた………。」
と歌は恵比須の福徳を説いてまわったのであった。この恵比須舞いが日本の操り人形、人形芝居の源流となっているのである。
西宮蛭子神社の蛭子信仰と、出雲美保神社の事代主信仰は記紀に記載があるとおりだが、蛭子信仰は伊弉冉(いざなみ)伊邪那岐(いざなぎ)尊が最初に産んだ子で、たとえば『源平盛衰記』(剣の巻)には、
「蛭子は三年迄足立たぬ尊とておはしければ、天磐櫲樟船(あめのいわくすぶね)に乗せ奉り、大海が原に推し出して流され給ひしが、摂津の国に流れ寄りて、海を領する神となりて、夷三郎殿と顕れ給うて、西の宮におはします。」
とある。